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馬路村農協

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馬路村ってこんなところ

「ごっくん馬路村の村おこし」のいきさつ

「ごっくん馬路村の村おこし」が全国の書店に並んだ経緯をご紹介します。著者の大歳昌彦さんは、よさこい祭りが大好きで毎年高知を訪れていた。「馬路村へ来て見んかえ!」。追手筋競演場に馬路村の広告看板を出していました。そのキャッチコピーに魅かれ1997(平成9)年、馬路温泉を訪ねてきた。入口には薄汚れた忘れ物コーナー、玄関には来客の靴が乱雑に散らばっていた。イメージ先行、実態ボロボロで愕然としたそうです。馬路村のイメージを良くしたいと言う東谷と出会う。以降、何度も村を訪ねてきた。村の文化を発信するには、馬路村のパンフレットを全国の主要書店に置いて貰うのが一番。本のタイトルに馬路村を入れて貰う。日本経済新聞社から単行本を出して貰うのが一番効果がある。とんでもないことを言う。半信半疑で聞いていた。果たして1998(平成9)年、「ごっくん馬路村の村おこし」が初版12,000部で発行された。版を重ねて12刷のロングセラーになった。

まえがき 村と結婚した男

 いつかはと念じていた。元気な村の元気な人達のことを、見たまま、聞いたまま、感じたまま、書いてみたい。

 現在、全国に市町村が3232、そのうち村が570ある。いずれも、その多くが過疎と高齢化という共通の悩みを抱える。中山間地域と呼ばれる、それらの村の多くが国と県の補助金や助成金に頼らねば、たちまち立ち行かなくなる。頼みとする国家財政もまた、赤字国債という名の借金に頼る。その一方で、日本は世界一の債権国というから訳が分からなくなる。

 地方財政の自立、地方分権が叫ばれて久しい。果たして、それは可能なのか。元気な村の元気の秘密を探る中で、その答えが見つかるのではないか。

 山の中にひっそりある、その村にやたら元気な人がいる、そういった噂はずいぶん前に聞いていた。ところが、JRも国道も通っていない。相当な覚悟がないと行けない。そのうち、いつか、チャンスが来るはずだ。そのうち、いつか、そう思っている間に、気が付けば5年の歳月が流れていた。

 四国の高知県、中芸地区と呼ばれる山の中に、その村がある。馬でしか進めない山の奥だから、馬の路と書いて「うまじ」という説がある。いまだそれは定かではない。その馬路村までは、高知市から車でたっぷり2時間かかる。高知市から国道55号線を海沿いに車を走らせると安芸市に入る。その安芸市から安田町を経て、安田川の清流沿いを、まるで鮎のように登って行く。「まだですか?本当にこの道で合ってますか?」。何度もタクシーの運転手さんに聞きたくなるが、それを5回くらい我慢したら、やっと馬路村に着く。山に囲まれているから、見上げると空が丸く見える。村の面積の97パーセントが山、その山の4分の3は国有林という、日本の農村の縮図を見るような典型的な山村である。

練習を終えた時、「ごっくん馬路村」の差し入れが農協から届き、子供達が歓声をあげた。

 かつて、この村には2つの営林署があった。林業が盛んなころ、3500人いた人口も、今は1269人になった。魚梁瀬地区に千本杉と呼ばれる美林がある。樹齢およそ300年。人の目の高さの直径が約1、2メートル、樹高40、50メートルと巨大な杉がそびえたつ山、それが千本山である。緑濃い山々が連なり、川辺に貯木場製材所が建ち、かつて林業立村だった、その名残を見ることが出来る。馬路地区に村役場、郷土館、工芸センター、馬路温泉など公共施設が集中、川を挟んで東西の段丘に集落が広がっている。耕地は狭く、村の産業と呼べるものは柚子くらいしかない。岸にへばりつくように柚子の木が横たわっている。四国の柚子の産地には、決まって平家の落人伝説がある。ここ馬路村の柚子もその昔、平家の落人によって植えられたと伝えられる。水が旨い、空気が美味しい、それだけで生活出来るはずがない。生活の糧を得るための施策として柚子を植えることになったのである。馬路村の柚子は昭和38年、村の森林組合が苗木を育て、村がその苗木代金を補助し、農協が販売するという村全体の取り組みで始まったものだ。一方で、村は林業立村から観光立村への道を探り始めた時期でもある。産業と観光、その両輪が回るようになるまでの道のりは平坦ではなかった。

 馬路村の農協に、この村で生まれ、育った、東谷望史というおんちゃんがいる。ちっちゃな農協の「タダの課長」である。当年とって46歳、1男2女の父親である。東谷さんが43歳の時に出来た次女の名前は「柚季」、それだけで、この男の柚子に賭ける熱い思いが伝わってくる。馬路村の柚は、高齢化故に手入れが行き届かず、結果的に、無農薬の野生の柚子になった。見栄えが悪く、そのまま青果で出荷すると、その評価は低かった。柚子加工品に活路を求める他、道はなかったのだ。東谷さんが、全国各地の催事に出掛け、コツコツ売るなかで見つけた結論は、「産地直送しかない」だった。ところが、その道は遠く、険しいものだった。不利、不便、不満、不足、不平に「不」を順番に取る、まるで「不取りませんか運動」みたいな、息の長い仕事になった。やがて、その努力が少しずつ、実をつけてきた。ある日、突然、ドラマが始まる。それから快進撃が続くのである。

 現在、柚子加工場の正職員は45名、パート職員が2名いる。平成11年度、柚子加工品の売り上げは22億4千万円になった。通販顧客が、全国各地に25万人というから、村の人口の197倍である。ぽん酢醤油「ゆずの村」や柚子ドリンク「ごっくん馬路村」の大ヒットは、この村のイメージを一変させた。村を丸ごと売る、その作戦が奏功したのである。柚子の生産、商品開発、製造、販路開拓、その全てが手探りの状態から出発したものだ。

 東谷さんは無添加、天然のおんちゃんである。村を掻き回す、我が儘な男なのに、なぜか憎めない。お祭りや、人と騒ぐのが大好きという、手に負えないヤンチャ坊主である。出るクイを打たず、いつも温かく支えてきたこの村の器が、今日の成功をもたらしたのである。

 この馬路村に私は何度も足を運んだ。いつも、この男のペースに振り回された。村の運動場で村役場や森林組合の人達とソフトボールの試合をしたこともある。この時、私は農協チームのピッチャーをさせてもらった。毎夜、村の人と代わる代わるの宴会になった。あれも、これも、全てこの男の仕業である。取材はまるで、山村留学だった。村で生きるということ。そんなテーマの学習である。それは同時に、自分自身の生き方の問いかけになった。この村の人達には、人間本来の心の豊かさがある、なぜ、この村の人達こんなにイキイキしているんだ、その不思議である。町からこの村に嫁いでくる娘がいる。それは「村と結婚する」ようなものだ。嫁いできたその日から、村で生きる、その現実と向き合うことになる。村のちっちゃな農協の産直が、「明るく、元気な馬路村」のイメージを定着させた。村の農協の「タダの一課長」が、それを作ったのだ。村の、人と資源を活用、それに付加価値をつけることで成功を収めたのである。

これが馬路村農協の最新通販カタログ。産直の生命線だから毎回、東谷さんが唸りながら考える。今回も快心作、10万部作った。

 その東谷さんがある日、こんなことを言った。「国や県の補助金をもらってやっている事業でも、その多くは民間企業に負けている。探せば、地元に新鮮な素材や、豊かな資源がいっぱいあるのに、それに気付いていない。これは、ひとえに努力不足だ。一生懸命やっている、その努力している姿が見えてこないと、誰も応援しようとは思わんがやろ」。平成10年10月を期に、安芸郡・市13農協が合併、統合するなかで、馬路村農協は不参加を決めた。自主独立、今まで通り、独自の道を進むことになる。今も課題は多い。しかし、東谷さんのことだ、今までもそうであったように、これからも、怖めず臆せず、道を切り拓いていくはずだ。「元気な村の元気の秘密」を、この「天然記念物村民村宝みたいな男」を通して探ってみることにした。この男の村を愛する気持ちは尋常ではない。これは「村と結婚した男」の物語である。

倍々ゲームで売り上げが増える

 「55年頃からやね。通販を始めたのは」。東谷さんが愛おしそうに、その頃の注文ハガキをめくって見せてくれた。その当時の、「ゆず販売課行」の注文ハガキは、首都圏と大阪方面の客が大半である。柚子天然果汁100パーセントの柚子酢は、1.8リットル、720ミリリットル、300ミリリットル、100ミリリットルの4種類ある。柚子天然果汁と、保存をよくするための塩入の柚子天然果汁、その2本立てである。注文ハガキはもう黄ばんでいる。「この頃の1枚のハガキは、そりゃあもう、嬉しかったがよ。ハガキはいわば、物産展に出店した評価やき」。大阪の上本町近鉄や天満橋松坂屋、神戸大丸と県観光連盟の物産展には軒並み参加していた。

 買って下さったお客様が満足してくれなかったら、注文は来ない。つまり、ハガキは東谷さんの言う通信簿なのだ。ハガキの中には、作家の三浦朱門さんからのものもあった。ご友人にプレゼントされる旨のコメントが添えてある。「その頃は、事務所には1本の電話しかなかったがよ。電話で注文が入るとうれしいがよ。それがちっとも鳴らんが」。「今度、いつ仕事あるが?」。3人のおばちゃんに、よくそんな催促をされた。村のおばちゃんに、週に3日だけ加工場にきてもらっていた。毎日来てもらっても、仕事がなかったのだ。「おばちゃんを毎日雇えるようにしたいなぁ」。それが、東谷さんの切なる願いだった。

「昔は週に3日くらい忙しい時手伝いにくる。そんな勤務でした」。今は繁忙期には夜10時までやっても注文がさばき切れない状態という。

 「今でも思い出したら涙が出るけんど」。手にしたコップ酒を机に置いて、東谷さんがしんみりした口調で続ける。「売ろうと思うたら、催事に出るくらいしかないがよ。50万円ほどしか売れる見込みがなくても、200万円分くらいの商品をトラックいっぱいに積み込む。行くからには、少しでもたくさん売りたい。その欲があるき、どうしても余計に積んでしまうがよ。夕方、加工場を出発して、一晩中、車を走らせる。散々、道に迷いながら。金がないきに高速道路はよう通らんかったがよ。フェリーに乗り換えて、朝8時頃にデパートに着く。長距離トラックの運転手やったら、そこで荷物を降ろしたらお仕舞いやけど、僕らはそれから仕事ながよ。これは農協の仕事じゃないなと何度も思うたね」。

 少しでも宿泊日数を減らして経費を抑えるため、決まって夜に出発した。「頑張ってきいよ」。夜中、トラックを走らせながら、ついさっき、加工場で見送ってくれたおばちゃんの声を思い出した。催事はたいてい1週間だ。声をからして、一日中、売場でお客さんに呼び掛ける。昼食を取る暇なんてない。それでも買ってくれる人はわずかだ。そんな日は泣きたくなる。お金がないので、泊まる宿はいつも安いビジネスホテルだった。わびしい毎日だった。「最終日は、これで帰れると思うと嬉しかったがよ。よく売れるブースは帰りの荷作りも気持ちが楽だ。売れんかったら悲惨、帰りもまた持ってきた荷物をトラックに積み込まんといかん」。一所懸命やっているのに、いつもたっぷり残った。「それでも家に帰れる嬉しさよ。安田川沿いを走って、馬路村の灯が見えた時は嬉しかったもんなぁ」。残った在庫を荷下ろしする時は、また泣きたくなる。「一所懸命、村のおばちゃんが作りゆうのに、よう売らんかった。申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになってね」。毎回誘われる催事には全て参加したかった東谷さんだが、いつも不振だったので、上司に「行かせてくれ」と、なかなか切り出せなくなった。「一回の催事に、最低2、30万の経費がかかるが。ヘタすると赤字になるがよ」。長かった不振の時代、それがある日、一変する。

 「突然、ドラマが始まったがよ」。東谷さんが目を輝かせ、身を乗り出して言う。コップ酒を一気にあおってから続ける。「あれは、55年の春、県物産展で神戸大丸に参加した時のことやけんど。ナント、この時は、1週間で127万円売ったがよ。今までになかった売り上げになったがよ」。初日の木曜日は5万円弱の売り上げしかなかった。「今回は、赤字にだけはしたくない」。気持ちは焦る。大声で呼び掛ける、しかし、売り上げには結びつかなかった。翌日、神戸大丸の食品係長、深瀬さんがブラッとブースにやって来た。「売れまっか?」。フイに聞かれたもんだから東谷さんは戸惑ってしまう。「それがさっぱりでして。すみません」。ペコンと頭を下げた。この時、深瀬係長が意外なことを口にした。「行ったことはまだないんですが、私の本籍は馬路村なんですよ」。冗談だと思って笑っていたら、上着のポケットから免許証を取り出して見せてくれた。見ると、なるほど、馬路村だ。急に親しみが湧いてくる。「ちょっと来て下さい」。いぶかる東谷さんを、深瀬さんはエスカレーターの前に連れていった。「ここに台を作るから、ここで売ったらええよ」。通路2ヵ所の交差点である。ここなら、全く人の流れが違う。場所を移した途端、たちまち人だかりが出来た。「その時は、課長と私の2人で行ってたもんで、人手が足りんくらい、売れに売れた。マネキンを雇うカネがないき、この時はよう頼まんかった。後悔したが」。柚子天然果汁100ミリリットルと300ミリリットルが飛ぶように売れ、たちまち在庫切れになった。

馬路村農協に電話して、中村泰子さんがでたらすぐにわかる。「お電話ありがとうございます。馬路村でございます」。その声がまことにのんびりしている。

 岩城組合長にあわてて電話することになる。「深江港まで取りに行きますので、すぐに船に乗せて下さい」。何があったんだ。最初は、組合長も事態が飲み込めなかったらしい。事情を話すと、すぐに荷を出してくれた。しかし、それも土曜には売り切れてしまう。また組合長に電話して、出荷を頼むことにした。ところが、今からだと、高知港から大阪南港までの便しかない。早朝、大阪南港まで取りに行くことになった。「これも日曜に全部売り切れたがよ」。未だかつて、経験したことがないことだった。「まさか、こんなには売れんやろ」。組合長は東谷さんの催促をにわかに信用出来なかったと見え、出荷量を毎回控え目にしていた。「商品があれば、もっと売れたが」。東谷さんは今でも悔しそうだ。

柚子ドリンク「ごっくん馬路村」は東谷さんの労作。
今では年間400万本出荷するヒット商品に育った。
人口1,269人の山村から生まれた「ごっくん馬路村」
は頑張ってる人を応援する元気印ドリンクなのだ。

 催事にはいつも四国出身の人がよく立ち寄ってくれた。柚子の香りに故郷を思い出すのだろう。「焼き魚、酢の物、寿司の見本を出すと、柚子の香りがするが。一人が買い始めると、みんなが一斉に買い始める。面白いもんやね、人の心理というのは」。ところが、柚子果汁とご飯の配合を聞く人がいる。「配合までは分からん。今度はちゃんと聞いちょきます」。頭をかきながら素直に謝ることになった。「もっと大きいビンはないの?」。何人もの人が、翌日も買いに来てくれた。こんな手応えのあった催事は、未だかつてなかった。

 催事に行くと、ハガキや電話で注文が入る。「どこで売っているのか。その問い合わせも多かったね」。常設で置いてくれる店が当時はなかったので、全て宅配である。その都度、東谷さん自ら製材所に行って杉の木を加工して箱を作った。頑丈に荷造りをして自ら安芸市まで運び、出荷するのが常だった。当時、馬路村まで宅配を取りに来てくれる業者はなかった。毎回、往復2時間かけて発送することになる。「宅配と言うても、半日仕事になるき。それに代金回収のシステムもない。現金封筒で送ってもらうしかなかった」。

こんな山の中の農協でも宅配の流通革命で全国への宅配産直が可能になった。

 宅配も一変、今では馬路村まで集配に来てくれるようになった。「日本通運が特に熱心だった。次にヤマト運輸がやって来て、やがてサービス競争になった」。宅配業者が代金回収もやってくれるようになったのだ。流通革命が山の中の馬路村にも入って来て、俄然、宅配の加速度がついた。63年、池袋西武での101村展での金賞受賞がそれを後押しした。63年に1億円だった売り上げが、平成元年には2億円、2年には倍の4億円になった。毎年2億円ずつ増え、5年には念願の10億円に到達した。「売りに行かんでも、お客さんがお客さんを作ってくれるようになったがよ」。平成6年にまた2億円増えて、12億円になる。ぽん酢醤油「ゆずの村」が高知の故郷産品を代表する商品になり、柚子ドリンク「ごっくん馬路村」のヒットで、倍々ゲームで売り上げが増えた。以後、毎年2億円増えて、10年には、20億7千万円、11年にはついに22億4千万円になった。

 雪だるま式で全国に顧客が広がり、その数、25万人を擁する。人の口にチャック出来ない、それは全て口コミで広がったものだ。人口わずか1269人の山村、馬路村のちっちゃな農協の産直が、この村のイメージを一変させた。東谷さんの歩んできた道を辿れば、それは、そっくり馬路村の観光立村への蘇生の歴史である。(「ごっくん馬路村の村おこし」全283ページ)

村の子供達は天然素材のモデル。
断然、説得力のあるポスターに仕上がっている。

あとがき 晴れて、馬路村の村民になった日

 このあとがきを記すにあたって、ハタと悩むことになる。「イカン。千本山にまだ登ってないがよ」。いつの間にか土佐弁が完璧に乗り移っている。「おまんは千本山に登ったことがあるが?」。村の長老、久保のおんちゃんから、まるで「登ってないと非村民」の口調で言われた。それはずっと気に掛けていた。千本山の麓までは行った。いつも雨にたたられて登頂を果たしていないのだ。千本山の千本杉は、村民の誇りである。千本山は、日本三大美林の一つ、魚梁瀬杉の産地だ。樹齢300年の杉が2500本ほど、天に向かって真っ直ぐ伸びる。林業立村のこの村の暮らしを長く支えてくれた恩人である。

 「明日の夜、馬路村フルマラソンの前夜祭に間に合うように行きます」。農協の東谷さんに、そう連絡を入れた。「いつも突然やき、もうびっくりしやあせん。待っちゅうき」。高知空港でタクシーに飛び乗って、馬路村に向かう。やっぱり遠い。果てしなく遠い。今回もしっかり確認することになる。

平成10年第8回「おらが村心臓やぶりフルマラソン」に全国各地から642人が馬路村に参集、熱戦を展開した。

 馬路村心臓やぶりフルマラソンの取材をした翌日、いよいよ千本山の登山だ。農協の宇佐美真紀さんと清岡矛さんの二人が同行してくれることになった。JOMO馬路スタンドの西山のおんちゃんの所で給油する。「千本山に登ってきます」。そう言うと、西山のおんちゃんが嬉しそうな顔をした。魚梁瀬ダムからがまた遠い。デコボコ道の地道に、真紀さんが車酔いした様子だ。今日は引き返すわけにはいかぬ。車を降りてから山頂まで、しっかり1時間20分かかった。展望台からいくつもの山の連なり、その向こうにダム湖が見える。杉の根が、まるで生き物のように広がっている道を、ゆっくり歩いて下りる。圧倒する大木に息をのむ。真紀さんは中学生の頃に登ったことがあるそうだ。安芸市から嫁いできた矛さんは、初めての登山だった。急な斜面に手を引いてやりたかったのだが、二人共となると無理だ。仕方なくやめた。千本山の千本杉は、天然のダムだ。杉が雨を飲み、やがて地中にしみ込む。その一滴、一滴が、岩や砂で浄化されて、安田川や奈半利川の清流になる。山の緑は生命の源である。千本山に登ると、それを実感できる。カモシカに遭えるかも、それは叶わなかったが、やっぱり来てよかった。

千本山は日本三大美林のひとつ、魚梁瀬杉の産地。
千本山登山に同行してくれた農協柚子加工場の2人。
左が清岡予さん、右が宇佐美真紀さん

 柚子加工場では、東谷のおんちゃんが待っていた。何やらゴソゴソしている。「旨いもんを食わしちゃらぁー」。例によって、今夜も安田川の河原で宴会である。久保のおんちゃんが、どこからか天然ウナギを調達してきた。前馬路郵便局長の大野のおんちゃんは、安田川の蟹を持ってきてくれた。スタンドの西山さん、商工会の清岡さんが一升ビンを抱えてやって来る。今日の調理人は柚子加工場の西山栄二さん、真紀さんと新人の木下法子さんは食べる係である。馬路温泉のフロントにいるやんちゃ坊主の林義人君が、匂いを嗅ぎ付けてやってきた。前日のフルマラソンを完走した林君は、今日は村のヒーローである。おんちゃん達が拍手で迎える。私とて千本山に登った、そのことで今日は村民扱いである。飲めや、食えやの大宴会が始まる。温泉の古田広子さんが勤めを終えて下りて来た。「ワシはマラソンの実行委員長を4回やっちゅう」。久保のおんちゃんのこの話は、昨晩から8回は聞いた。「重い荷を下ろして楽になったがよ。今夏は、この川下の河原で3日ほど泊まり込んで鮎釣りをした。家内に弁当を運ばして、河原のキャンプよ」。今春、馬路郵便局長を定年退職した大野のおんちゃんは、飲むほどに上機嫌になった。「明ちゃん、そりゃあ、違うぞ!」。東谷のおんちゃんのもがりが始まった。これは放っておけばいい。役場の甫木さん夫婦と昨日、食事を一緒にした時にこんなことを言っていた。「ウチの長男も野球の時は、他のおんちゃんからゲンコを埋められるし、私らも他の子でも怠慢プレーしたら、同じようにゲンコを埋めますよ」。馬路村の人は家族なのだ。

馬路村は人気がある。「今度、馬路村で講演させてもらうんだけど」。そう友人に行ったらたちまち総勢75名での「馬路村ツアー」になった。

 みんな、姓ではなく名で呼び合う。真紀さんが振り返って言う。「私が村に帰った時、堂司君や村民の人、皆んなが親身になって世話を焼いてくれました。村を出る時、皆んなからあんなに反対されたのにと思うと、どんな顔して村の人と会えばいいのか、本当に辛かったんです。皆んながあったかく迎えてくれたので、村に帰って来て本当に良かったと思いました」。どうじ君とは、正しくは「たかし」君、現村長である。10歳以上も年上の人を堂々と、堂司君と呼んでるのだから恐れ入る。大野のおんちゃんが、やおら叫ぶ。「真紀!食いよるか?食えよー」。おいおい、林君が素っ裸になった。こらっ!やめんか。真紀さんや法子さんも居るんだぞ!馬路村青年団長と、昨日のパンフレットに書いてあったぞ。肩書きの威厳ちゅうもんがあるやろが。ところが、おんちゃん達はまるで無頓着、ヤンヤの喝采だ。「義人!川に飛び込め!」。林君は、初めからそのつもりだ。東谷のおんちゃんもTシャツを脱ぎ始めた。西山のおんちゃんが必死で止める。「もち!年やきに、もうやめちょけ!」。これでやっと断念したようだ。法子さんがモゾモゾし出した。もう11時だから、家に帰りたいのだ。「もう帰っていいですか?」。「もうちっとやれ」。法子さんは新人だから、東谷のおんちゃんの気質をまだつかめていないようだ。こんな時は、こう言わんといかん。「まだ居てもいいですか?」。これならスッと帰してくれる。「イカンぞ。遅いからもう帰れ!」。

 生きていて良かったと思う時って、どんな時ですか。昨日のテレビで、そんな番組をやっていた。生きるって楽しい。安田川の河原で、それを実感できる。

 「これは明朝、オラが片付けするきにかまん」。河原に持ち込んだガスコンロや炭の窯、まな板にビールクーラーを放ったらかしにしたまま、お先に失礼した。翌朝、温泉の食堂に朝食を摂りにやって来た時、東谷のおんちゃんと大野のおんちゃんが雨の中、片付けをしているのが窓越しに見えた。イカン、手伝どうちゃろ。そう思った時には、あらかた片付いていた。私が外に出た時にはもはや、軽トラックにいっぱい積み込んで、走り去った。その後ろ姿に、心の中でありがとうを言った。

松崎さんは東谷さん達を誘ってかねてから念願だった三重県のモクモク手づくりファームを訪ねた。前列右端が松崎さん。

 この1年間で、この河原宴会に7回参加した。北海道、青森、長野、三重、京都、島根などから、友人75名と一緒に押しかけた時は、ビニールハウスのドームを急拠、しつらえてくれた。飲めや、食えやの大宴会を夜中までしたことを、昨日のことのように思い出す。東京は大田市場で「日本一のユリ」の折紙付きをもらっている「樽井農場」の樽井功さんが北海道、東川町から空路やってきた。「こんな辺境の山村でも一生懸命に柚子作りに励んでいる人達がいる。その感動ですよね。私の生まれ育った北海道と比べると別世界、ここはまるで外国です。現在、農業を取り巻く環境は厳しいものがありますが馬路村の人達に会って元気をもらいました。甘えてたらイカン。私の住む東川町を子供達の誇れる町にしたい。そう決意を新たにしました。馬路村に来てよかったです。ありがとうございます」。最後は泣き声になりながらそんな話をしてくれた。島根県浜田市からは「ふれあい総合農場しまね」の佐々木玲慈さんが主催する起業家育成実践塾のメンバーが15名。三重県からはモクモク手づくりファームの木村修社長、吉田修専務が「三重県村づくり加工事業連絡協議会」のメンバー15名と一緒に。青森県森田村から社会福祉法人健誠会「つがるの里」の今秀則園長も。宴会はお国訛りあふれるお祭りになった。いつもの宿泊処、馬路温泉の皆さんとも今ではすっかり顔馴染みだ。この前、1週間泊まった時は、温泉のおばちゃんに下着まで洗濯してもらった。この「ごっくん馬路村物語」は、その時の絵日記みたいなものである。

30m×16mの巨大イカダがステージ、堤防が客席。その客席が7,000人の観客で埋まった。加藤登紀子さんを招いて前代未聞のダム湖上コンサートを開催。

 今回もまた、日本経済新聞社出版局編集部、斉藤保民さんにしっかりお世話になった。原稿中の土佐弁のチェックをしてくれた馬路村農協の宇佐美真紀さん、遅くまでありがとう。馬路村村長、上治堂司さんを初め、村の皆さんにありがとうをいっぱい言いたい。縁あって、読者になってくれた皆さん、ありがとうございます。馬路村でお会いしましょう。「大歳昌彦入村中」の札を、馬路温泉に掛けておきますので、その時は声を掛けて下さい。ところで、コレってあとがきでしたよね。最後まで絵日記みたいになってゴメン。

「ごっくん馬路村」の村おこし

〜ちっちゃな村のおっきな感動物語〜

大歳昌彦

Otoshi Masahiko

日本経済新聞社